年表
 

4年生の社会科学習用に作ったページです。
明治23年
(1890年)
6月18日,千代田村小学校簡易(かんい)科として創(つく)られた。
当時四街道市はまだ市になっていなかった。
千代田村と旭(あさひ)村ができたばかりである。
下志津新田や畔田(今の四街道)の子どもたちが,
それぞれの村の尋常(じんじょう)小学校に通うには遠すぎたため,簡易科を作った。
※千代田村の小学校は現在の南小,旭村の小学校は現在の旭小。
明治25年
(1892年)
簡易科をなくし,尋常小学校を作った。当時は「六方尋常小学校」といった。
明治33年
(1900年)
六方尋常小学校を四街道尋常小学校という名前にした。
学校の位置も,下志津新田から四街道に移した
※「四街道」という地名はまだなく,学校名の方が先に「四街道」となった。
明治39年
(1906年)
四街道尋常高等小学校と名前が変わった。校舎を増やし,明治44年に完成した。
四街道尋常高等小学校となった記念碑(きねんひ)が,四小に残っている。
西昇降口(しょうこうぐち)前にある記念碑
記念碑に書かれた文章。
漢字だけで書かれている。

<大意>
四街道の広野(原野)を昔は六方が原と言った。
今(当時)の印旛郡千代田村にあたる。
いなかで住んでいる人が少なく,学びたくても学校は遠くて通えなかった。
しかし,学校はとても大切ものであり,学校がないことを村の人たちはこまったことだと考え,
ようやく六方簡易小学校をつくり,ふつうの家を校舎にした。
その後,改めて六方尋常小学校と名前を付け,新しく校舎を建てた。
そのころ,陸軍砲兵射撃(りくぐんほうへいしゃげき)学校と砲兵(ほうへい)第十八連隊(れんたい)が四街道にできた。
そのため,四街道に住む人々が急に増え,子どもの数も倍になった。
校舎がせまくなり,子どもたちが入りきらなくなった。
そこで,校舎を大きくすることにした。
明治33年に四街道尋常高等小学校として新しく建てる工事を始めた。
ようやく,原野であったこの広野にりっぱな学校ができたのである。
これも,村人たちの学びたいという強い思いがあったからできたことである。

※このころの小学生の服そう
 男子…つつ袖(そで)の上にしまのはかまをはき,ぼうず頭に学帽をかぶっていた。
 女子…着物にはかまで。
 くつはなく,わらぞうりか竹の皮ぞうりをはいていた。
※このころの小学生のおやつ
 さつまいもかおもち。
※学用品
 ノートやえん筆もあったが,石板に石筆を使って計算した。
大正2年
(1913年)
遊具(鉄ぼうなど)が作られた。

※このころの小学生女子
 はかまはふだんはかず,着物に前かけをかけ,
 わらぞうりで教科書をふろしきにつつんでかたにかけて結んで通学した。
 毎朝,かみの毛を結ぶのがとても大変だった。
左側の女の子は
4年生。
昭和13年
(1938年)
今の四街道小学校の場所に移った。
昭和16年
(1941年)
4月,四街道国民学校と名前が変わった。
この年の12月に太平洋戦争が始まった。
昭和22年
(1947年)
四街道小学校と名前が変わった。
高等科がなくなり,小学校には現在と同じ6年間通うようになった。
PTAが作られた。印旛郡市の中ではとても早い時期に作られたPTAである。
学校給食が始まった。これも県内でとても早くから行われたこと。
脱脂粉乳(だっしふんにゅう)という牛乳代わりの飲み物が出されていた。
昭和43年
(1968年)
鉄筋(てっきん)の校舎9教室分ができた。
木造1階建ての校舎をこわした。
昭和48年
(1973年)
鉄筋三階建て23教室が完成。
木造二階校舎と木造一階建て校舎をこわした。
昭和51年
(1976年)
体育館ができた。
校庭を広くした。
昭和58年
(1983年)
プールができた。
平成2年
(1990年)
創立100周年。